「それって見立てと言えるのか?」

 CAGEさんが下さったコメントより抜粋。

私は千羽鶴の折り鶴に見立てを求めませんし、見立てを求める心理がわかりません。鶴に見立ててしまったら千羽鶴じゃなくなってしまうとすら思います。そもそも、鶴があれだけ重なってかたまりとなって存在している場面というのは想像を絶するもので、ナチ鶴によって大量虐殺されたユダヤ鶴の墓場みたいな感じです。

 うーん、ぼくの言っている見立ては、千羽鶴全体に対して行うようなものじゃないんです。さらに言うと「鳥のツル」に見立てている、というのとも少し違う。思い切って言えば、「「あの中割り折り」は「頭」なんだ」というその認識のみを指していると言ってもかまわないかもしれない。なんだか今更のように「それって見立てと言えるのか?」とも思えてきたんだけど。



 ここで前川さんの伝言板でのコメントを引用。

鶴(ツル目ツル科の鳥、またはそれに類する大形鳥類、さらに一般的にして鳥)と、折鶴の「ツル」を完全に切り離している感覚を前提としてもなお、頭を折る折らないという葛藤はあるようですし。

 そう!勘所はこの葛藤にあります。そこで「折らなければ」と思うか「折らなくてもいい」と思うかが、大きな分かれ目なんだという気が(自分にとって)しているんですね。今その辺りを整理すべく作業中‥‥タトさんのコメントはその中で触れます‥‥とりあえず今日はここまで。