ぼくの問題系から――キャラクター性

 タトさんのコメントにおける「空想動物」という表現から想起されたことを書きます。タトさんの意図とは違う内容になっている可能性も大ですが、それはそれ。



 ぼくは、なぜ折り鶴の首を折るかどうかにこだわるのか。それは、折ることで「重要な何か」が得られるからに他ならない。そしてそれは一種のキャラクター性ではないかと思う。
 ちょっとした物の配置に「顔」を見て取って面白がること。佐藤健太郎さんのサイト「K.SATOH's official websitehttp://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/内のコンテンツ「Gallery Face」http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/FACES/face.htmlは折り紙者の「見立て心」を刺激する。なぜ顔を見出してしまうのかは、生物としての人間に元来備わっているパターン認識なのだろうけど、顔に見立てることに「面白さ」を感じるのは、その顔にキャラクター性――時にはバーチャルな関係性(心の会話、とか)――を想像できるからではないだろうか。コクツさんの「魂が入る」というのはこういうことだと解釈している。


 実際ぼくは折り紙作品を見るときには、そういうやり方で見ている気がする。つまり、まず「顔を探す」ところから始まる。特に、一見何なのか分からないようなシンプルな作品では、この過程を自覚できる気がする。
 このように、見立てというのは、単にかたち全体の類似性から生じるのではなくて、顔なら顔というふうに一部を先行して見立てて、それから全体として見えてくるものなのではないか(それはどこか言語的な認識の方法と通じるものがあるように思う)。*1

 
 キャラクター性はどんな体の部位に備わるのかを考えると、それは「顔」の他には「手」というのが挙げられそうだ。すると、ついつい「五本指」を折ってしまうのは、構造や工程的な面白さを除けば、それを作ることで目の前の紙片が曲がりなりにも「何者か」「誰か」になるからではないだろうか。ぼくはそういう事に惹かれて折り続けているのだと思う。


 ここでは、キャラクター性を与えられることが折り紙の面白さだと言っている。しかし、それほどキャラクター性を引き出すことができるならば、もっと折り紙オリジナルなキャラクターができていてもいいではないか。西川さんが次の引用で述べている事実と反していないか。

 折り紙がどんなものをテーマに選んできているでしょう。ある種のデータを示さなければならないところですがそれを割愛しても、テーマは実際に存在するかあるいはなにか別の表現手段によって示されたことのあるものだということは認められるところでしょう。言い直せば、既に一般的な共通の概念が成立しているものです。
折り紙批評体系 造形を目指すこと(1)より

 しかしこれは矛盾していない。それは西川さんの想定が「発表された」折り紙作品だからだ。作品が多くの人に訴えかけるにはやはり共通の概念が成立している必要があるだろう。
 しかし、ぼく自身のことを考えてみても、何気なく折った紙片を「ぼくだけが知ってる(というかその時にでっちあげた)空想生物」に見立ててみて、一人にやにやする、なんてことはしょっちゅうある。S太郎さんのあの「適当創作折紙展示場 こんなのできちゃった」*2もそういう楽しみから生まれたもののはずだ。



 ‥‥と書いてきたが、「キャラクター性を見る」ことは「見立て」とイコールだろうか。上の文章ではその辺りが実は混ぜこぜになっているのだけれど、そうだと言うのは少し不安がある。というか違う気がする。関連しているのは間違いないと思うものの、まだよく分かっていない。
 まあそれは今後考えるとして、少なくとも折り鶴の頭に関して「見立て」云々してきたのは、こういう意味だったと受け取ってください。

*1:この辺、をる16号の木村西川山梨鼎談で千野さんの「牛」について語られてる内容を思い起こす。

*2:今サイトが消えちゃっているみたいで残念ながら見ることができませんが