折り鶴のキャラクター性

 折り鶴では、普通の折り紙作品とは違って、折る行為から得たキャラクター性に加え、折り紙文化さらにその外の文化がすでに歴史として持っているキャラクター性がある。とりわけ「キャラが立っている」のだ(笑)。その歴史を含めて折り鶴に「キャラ付け」しているのならば、折り方を変える事(しかも肝心要の頭を折らない)など論外!というような感情が沸く。ぼくは沸いた。


 逆に、折り鶴に別段キャラクター性を見出していないのならば――折り鶴がそれ自体に思い入れのない「折り紙」に過ぎないのであれば――その折り方が多少変わろうが問題はない。周囲がそれを折り鶴だと言っているのならまあ折り鶴なんだろう、ということになるだろう。重要なのは、ひとつひとつ手間を掛けて折ることであり、平和などのシンボル的意味であり、イベント化した風習そのものの方である(+気持ちもね)。


 以上のことが、首を折る/折らないの判断の差に多少なりとも関わっていると考えてみたい。


 誤解しないでもらいたいのが、ぼくはキャラクター性を見出すこと(もしくは見立て)が、折り紙にとって本質的だとかそういうことを言うつもりは全くない。それは折り紙の楽しみのひとつに過ぎないし、そうやって楽しんでいるひとが多数だとか少数だとかいうことも、(興味深い関心事項ではあるが)特に意味はないと思う。そのような楽しみをせずとも、折り紙が魅力的なことには変わりないだろう。*1


 さて、改めてこの観点から色々と思い巡らせた結果、腑に落ちることがあったので、それを書いてみようと思う。


 http://origami.gr.jp/BBS/00051-00100.html#00056http://origami.gr.jp/BBS/00101-00150.html#00121を読んでみると、羽鳥さんが「キャラクター性」の面から折り鶴を捉えていないことが分かる。少なくともそれを強調するようなことはしておらず、頭の中割り折りは「造形の対称性を破る」ものとして評価されている。ここから読み取れるような羽鳥さんの志向性が、一線折りに向くというのはうなずけるものがあるだろう。言うまでもなく一線折りにキャラクターを見るのはほとんど不可能だ。


 また、先日「千羽鶴ユニット説」などという思い付きを書き、ユニット派の人が千羽鶴問題をどう見るか興味があると書いた。
 ユニット派は、折り紙造形にキャラクター性を見ることに、比較的積極的ではないと考えてもいいだろう。そこで思いつくのは川村みゆきさんの「放散虫」だ。あれはまさに「首を折っていない折り鶴」そのものじゃないか。この放散虫を田中まさしさんがどうアレンジしたかというと、頭を付け加えて「放散鶴」(http://kfd-oriclub.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/joyful/img/11.jpg*2にした。などと書くと、各氏から「別にそういうつもりじゃない」と言われるかもしれないけど、ぼくの中では象徴的な事例のひとつとして見えている。

 

*1:実のところ、むしろぼくは今、過剰にキャラクター性を見出すことに問題意識を見ていたりする。この視点は結局、過剰な思い入れ(主観)とイコールだからだ。空想生物の例のように、過剰な思い入れは、他者と共有しにくい。ぼく自身、身に覚えがあることだが、自分の創作作品を人に見せて全然違うタイトルが返ってきた場合、まず疑っていいのは自分の思い入れ過剰な見立ての方だろう(笑)。通好みのスーパーシンプルな作品にはそういう「落とし穴」があると以前より感じている。しかし、「強い思い入れ」が共有できた場合、そこには強固な共有感覚――連帯感覚とすら言えそうな――が生じるとも言えるわけで、それはそれで価値あることに間違いない。このことを問題視することも、あくまでぼく自身の現在における個人的価値観に過ぎない。

*2:直接クリックで飛べないかも。コピペで。あと田中さん直リンすみません