見立てる心理とか

 以下は、内容的にはコメント欄でのCAGEさんへのレスの続きのようなものです。問題設定すら整理できていない状態ですが‥‥。とりあえずメモとして。


 「見立ての感覚の違い」と書いたことの補足。まず第一には「彼らは見立てを重視しない。だが、我々はそうではない」という単純な意味で、前半はCAGEさんの意見と同じようなものだ。ぼくの主眼はむしろ後半にある。ぼくは千羽鶴の折り鶴にも見立てを求めるし、おそらく、伝言板に書かれた皆さんもそうだと思う。それを過剰に見立てを求めていると言えないだろうか。
 だいぶ前になるが、羽鳥さんがhttp://origami.gr.jp/BBS/00051-00100.html#00099で「どうして動物なのか」という疑問を提出していた。今回コクツさんの言った「魂」という言葉は象徴的なものがないだろうか。そして、首を折らない鶴に「キモチワルさ」を感じても、三つ首鶴なんかを平気で受け入れたりするぼくら。これってかなり変な感覚なんじゃないかという思いがある。(ある友人は三つ首鶴を見て「グロイ」と言っていた)


 とすると、語源にこだわる人とこだわらない人の間に生じるような齟齬と似たような状況が、折り紙鑑賞においても生じるわけで、こういうことにどう向き合えばいいのか、ということが「千羽鶴問題」を取り上げるときから頭にあった。西川さん的に言えば、見立ての成功・不成功の問題であり、最終的には「折らない鑑賞者」に通じるテーマだ。
 前川さんの言っていることとはずれているかもしれないが、「見立ての形式化に対する自覚」というのは、今のぼくにぴったりくる感じ。