後半身から作る・その2

後半身から作る」のつづき。

 ある程度複雑な折り紙では、デザインあるいは構造上の「解像度の調節」という問題が生じる。自由度のある基本形から加工しまくって造形するという方法論では、それほど深刻にはならないかもしれないが、基本形の幾何学的な折りを生かした造形を目指す場合は、デザインの全体バランスを取るのにしばしば苦労することがある。特にぼくの作風は典型的だと思うけど、他にも例えばボックスプリーツ作品の創作などにもそういう面が現れる。

 具体的にはどういう状況があるかというと、ぼくの場合「この動物を折ろう」と思って、特徴的な頭部から作り始めるときによく起こる。「表現欲」が知らず知らず膨らむからだろうか、ついつい折りが複雑化してしまう傾向があるせいだ。自作で言うと、結局没になってしまった「オオカミ頭部」「イノシシ頭部」などは、思わず頭部デザインが複雑化してしまった例で、もちろん没の理由は、できた頭部に情報量的に見合う胴体をつけられなかったという、どうしようもないものだ。
 どうにか作品にはなったが、「カバ」も同じ傾向があって、顔に見合う胴体をつけるのにかなり難航させられ、結局成功には至らなかったと思っている。また、同じく頭部からデザインした「馬」は、完成版の頭部を得る前に、何回か複雑すぎる頭を作ってしまい、かなりシンプルにまとめることを意識しながら作った物だった。

 つまりはバランスを取るだけの技術が自分に無い、という話でもあるのだけど、後足から作ることによって少し抑制を利かせて折ることができ、破綻を回避することに繋がるようだ。頭と比べれば、後半身への思い入れは少ないからだろう。それでも、折り始めの段階はアイデアを投入しやすいため、没個性になりがちな後半身に見所を与えることが可能となるので、結果的に全体のバランスが良い感じにまとまる。というのがぼくが経験的に感じていることである。

まとめ

 前回の記事は、あらかじめテーマを絞らずに面白い構造を探すことから作るパターンについて述べ、今回は、テーマが決まっていても、あえて思い入れの少ない部位・作品のモチーフから離れた部位から作るというパターンについて書いた。どちらも完成した作品は、偶然や非意図を反映したものになるところで共通点があると言える。
 創作において偶然を期待しながら作ることは、ある意味では非効率かもしれないが、考え方を変えれば、より効率的に偶然に出会うための方法というのが考えられるわけで、「後半身から作る」というのもそうした偶然と効率の境目を探るためのひとつのやり方なのかと思った。

おまけ

 では、なぜ偶然性を求めるのか?という疑問を、渡辺大さんが自問されている(リンク先2005.12.24の記述)。
 ぼくの場合はどうかと言うと、あまり自分のデザイン能力に期待していないというか、自分のデザインを前面に出すのに尻込みしてしまうようなところがあって、偶然性をもって「作品のデザイン」と「自分」の間に距離を保っていたいという気持ちが実はある。角度系の縛りを課しているのも同じ。悪い言い方をすれば、「うまい絵になってないのは作者の責任じゃなくて幾何学(紙の摂理?)のせいなんだよ」という逃げでもあるかもしれない(うーん倫理的に問題があるかな‥‥)。しかし、折り紙というのはそういう態度で見たときにとても面白く映るものだという気持ちはあって(ブリルさんらが言う「紙との対話」や西川さんの見立て論は代表的な回答だろう)、この辺はまた別の機会に考えてみたい。