ゆびあそび―折り紙―〈昆虫〉―視線

 注意:以下はかなり正当性のあやしい議論です。そのつもりで読んでください。

 ぼくはまた、園児〜中学生と、昆虫少年でもあった。喘息持ちだったこともあって哺乳類のペットには比較的関心が薄く、興味の対象は昆虫や小魚といった小動物。学校や家の近くで採集しては水槽に入れて、それこそ何時間でも眺めていたものだ。その視線は、ゆびあそびや折り紙に向いていたものとかなり重なるように思われる。

 あらためて視線ということを考えてみる。
 ‥‥ぼくが「指/折り紙」を見つめる。見立てを行う。「指/折り紙」は「顔」になる。「顔」には目がある。その目がぼくを見つめる。
 ぼくの視線により生じたはずの視線に見返される。その不可解の中にキャラクター性が宿る。それは自分自身が投影された影にすぎないのだけれど、心の中の存在などと違って彼らは物理的な存在であり、彼らの「肉体」は完全にコントロールすることができない。独特の存在感もそこから生まれてくる。

 昆虫も、基本的に自分のコントロール下にあるが、思いがけない「反応」もする相手という点で、共通する存在だと言えないだろうか。ぼくの視線を受け止めつつ、見つめ返してくれる相手、である。これがヒトや哺乳動物だと、ぼくの視線自体の成立が危うくなってしまう恐れがある。
 決して友達がいなかったわけではないけど(多かったわけでもない)、一人遊びが好きだった方だ。関係があるかどうか、読書も伝記や歴史物などのノンフィクションが大嫌いでフィクションに耽溺していた。ズバリ人間にあまり興味がなかった。(今はそんなことないですが。)


 なんか自分語りの様相を呈してきてしまったなあ(笑)。キモチワルイのでこの辺でまとめに入ると、ゆびあそびや折り顔に対する動機は、「見立ての面白さ」そのものというよりも「キャラクター性の設定」という点にあるのではないか、ということが言いたいわけです。

 昨日もちょろっと書いたけど、その動機は発達心理的な側面から説明されるようなものなのかどうか。ぼく自身、思春期を過ぎる頃から「顔の見立て」に対する強い関心は薄れていったように思うので(同じく昆虫に対してもいつの間にか興味が薄れていった)、そういう側面はまるでないとは思えないところがある。
 それでも、完全に消え去ることなく今も生き残っていて、ぼくが折り紙に向かう動機のひとつとして大きいのではないかとは思っていて、その辺は前に書いたとおり。実は、折り紙で昆虫を折るということの背後にはこのような視線が共有されている(もちろん、動機のひとつとして)のではないかとも考えているのだけど、さすがにこれはちょっと飛躍しすぎかもしれない。


 さて、以上は多分に個人的な話であるので、多くの方の同意は得られないかもしれない。しかし、ゆびあそびの文への反響や、折り紙者の趣味にある程度の共通性を見出せることを考えると、何か共通する心理(見立てを面白がる心理とは別に)というものがあるように思えるのだけど、どうだろうか。今後も考えていきたいところだ。