続々・折りの楽しさ

楽しい文通の時間です。

座屈感と折りの心地よさについて

個人的に座屈感って「紙の繊維を壊すこと」、かなと今まで漠然と感じてました。「折りの心地よさ」って「繊維を真っ二つにしてやったぜ!」的な破壊行為に対してのプリミティブな快感を勝手にイメージしてました。それって慣れの要素があるのか?

座屈感はそのとおりですね。「折りの心地よさ」は、「座屈感」を含みつつも、もうちょっと複雑に紙を動かしているときの感覚を考えてて、最初の記事では

「ある技法に対して指がすっと動く楽しさ」のような無意識的な運動

と書いたけれど、nhさんの好きな野球で例えるなら、「ゴロをキャッチして流れるように一塁に投げる感覚」のような、そういうイメージ(笑)。習得までは苦労があるが、できるようになれば快感になったりする。慣れが必要とはそういうことです。


■27日追記
もっと良い説明を思いつきました。折るときに普段と違う指づかいをすればいいのです。「いつも親指で折り筋を付けているのを薬指にする」とか、「花弁折りをするときいつもは右手でカドを持ち上げて左手でフチを合わせるのを、手を左右逆にして折る」とか*1
このとき、「紙の心地よさ」や「座屈感」は変わらずに在るのだけれど、失われてしまう感覚があって、それがぼくの言っている「折りの心地よさ」の中核と考えてもらえばいいです。
こう考えると「心地よくない折り」というのは、「既知の折り技法なのに、普段自分がしている手つきで折れない(周囲の紙の状態などが原因で)」ような状況として考えられますね(他のパターンもあると思いますが)。頭を使わないで済むはずだったところで頭を使う必要があったときに感じる不快感と言えるでしょうか。nhさんが蛇腹の折り筋つけについて「ただ、ここに余計な線つけないようにしようとか、色々考えて線付けするとすっごいめんどくさい作業」と書いたのも当てはまります。
もっとも以上の説明だと、「慣れが必要」というかまんま「慣れ」となってしまいますが、正確にはちょっと違いますね。正確には「普段と違う指つかい」をしたときも「折りの心地よさ」はまだあると思われます。人によって感覚は違ってくるし、「慣れない折り」をしてるときに強い心地よさを感じる人もいるでしょう(それは同時に「折りの面白さ」を感じていることになりますが)*2。以上、散漫な説明でしたが、大雑把に「指の運動」という説明が一番分かりやすいかも…。


体系化について

まず意味の擦り合わせをしておくと、

知識の体系化自体にはある程度の客観性が想定できるかもしれないけれど、そこからどういう価値を見いだすかは個人の問題なので当然違ってくる。

と前回書いたのは、学問としての折り紙みたいなのを想定していました。nhさんが論を展開している意味での「知識の体系化」はおそらく「個人の折り紙観」に相当して、それはぼくのこの文章では後半に当たる部分だったりします。これはぼくの書き方が分かりにくかったせいだし、議論の本質にはほとんど影響しないからことさら言及せずとも良かったのけれど、せっかくなのでnhさんの論を踏まえて再整理するならば、
・学問としての折り紙(客観的な知識体系)*3
・個人の折り紙観(主観的な知識体系)
・権威化した折り紙観(共同主観的*4な知識体系)*5
が相互に影響を与えてる図式が書けそうです。
でもってnhさんは、個人がどう自分の折り紙観を育むか(それもあまり人に頼らず自分の力で)というところに強い関心があるんだろうと今までブログを読んできてそう思ってます。ぼくはどっちかと言うと「体系ごと『勉強』」できるんじゃないかと思っていて、だから記事でもその辺りは軽く流してしまってたりもする。むしろ現状の問題は「勉強」の機会が少ない点、言い換えれば知識の流通量が十分にない点にあると思っているくらいですね。


権威化する折り紙観

その曖昧な「客観性」が「折紙らしさ」みたいなマジック・ワードであたかも客観的なもののように捉えられてるんじゃないかと。

用語の意味合いを把握しなおした上で、これは面白い指摘でした。例えば「触感のレベル」と「判断のレベル」の混同から「俺が楽しい折り紙がイコール優れた折り紙」というような思い込みに至ることもありそうで、そう共感する人たちの間で前提化することもありそう。まあでもそう思うこと自体は悪いことでは無いし、特に創作家だったら、そういうエゴなパッションが無い方がむしろ変でしょうね。
nhさんもそういう結論に達しているようだけど、ぼくも「優越感ゲーム」あるいは「権威取りゲーム」は、作家も愛好家もやりたい限りにおいて好きにやり合えばいいと思います*6。と言っても、愛好家に関しては「触感のレベル」の方が基本的に優位だろうからそこまで行かない方が多数じゃないかなというのがぼくの予想。
「個人の折り紙観」を育む上で、「権威化した折り紙観」が多様性を抑圧する方向に働くことをnhさんは心配していて、それも分かる話です。ぼくとしては「学問としての折り紙」の客観性(批判的精神)がその担保になればと望みたい…「学問としての折り紙」自体が権威化するってのもあるけども。一本化せずに、権威化した価値観が乱立していってそれ自体が優越感ゲームを構成していくことも考えられますね。いずれにせよ、抑圧が認められる際に、対応して告発が可能な状況ならそれでいいかな、と思ってます。


おわりに

各論点への注目度合いで、多少の認識の違いはあるようだけども*7、「面白くもなんともない」結論(笑)にはもちろん同意です。

*1:そう言えば昔、「折りの利き手」について話題にしたことがありました

*2:この辺はやはり以前書いた「折り応え」と関連

*3:具体的には、折り紙の歴史、折り紙の数学、設計理論etc.

*4:この語が適切な使い方かどうかは分かんない

*5:具体的には、不切正方形一枚折り主義etc.

*6:誹謗中傷にならない程度に。折り紙界のまったりした現状を見るに、その心配は当分なさそうですが

*7:たぶん今回のぼくの返信もnhさんの意見を汲み取れてない部分があると思います。ま、それはお互い様ということで