さらに変わる「暫」

 北條さんの「暫」に、つや消しの処理が加えられた。つやあり状態の実物を目にすることができなかったのはちょっと残念ではあるが、写真の見た目にもぐっと渋くなっているのが伝わってきていい感じだ。
 ちょっと折り筋が目立つかと思ったけど、よく見ると折り筋の部分の色味としては前回の処理の時からはそんなに変わってなくて、周り全体が落ち着いた分そう感じられるようになったということみたいだ。これはこれで「年代物」って雰囲気があって悪くない。


 前回アップされた写真はあまりにも変化が激しすぎて違和感がぬぐえないところがあったが、今回の結果でようやく落ち着いて(?)処理前の写真と見比べられるようになった感がある。
 見比べての感想だけれど、やっぱり加工前にあった「(従来的な)折り紙らしさ」は確実に失われているように感じる。ここでいう「折り紙らしさ」とは、西川さんいうところの「四次元的なかたち」、言い換えれば「変化を内包している(=まだいじれる)かたち」が持つ独特の雰囲気のことだ。強く感じられるのはある種の「軽さ」であり、「親しみやすさ」とも表現できるかもしれない。
 しかし、これは利点であると同時に弱点にもなる。特に悪い方向に傾くと「所詮折り紙」という例の価値観へと繋がることもありうるし、また「折られたもの」という認識(への驚き)が「造形そのもの」のシビアな評価を曇らせることも考えられる。

 今回の「暫」の写真からは、上に書いたような造形にとって弱点と言えるような「軽さ」がなくなり、重量感・安定感・存在感というような形容が浮かんでくる。もちろん「折り紙らしさ」が完全になくなっているわけではないし、不切正方形一枚という感動も変わらず認められるのだが、そのような「折り紙に特殊な背景」を一切無視した次元で、より「造形として勝負している」作品になったように思える。失うことで獲得した何かがある。


 ぼく自身はすでに何回か書いているように「折り紙造形」に対して強い信頼を抱いていなくて、自分の作品についても折る体験なしに成立する造形だとは思っていない。この辺はもう少し丁寧に書いてみたいと思いつつ、それは機会を改めるとして、常日頃北條作品からは「造形そのもので勝負したい」という気概を(自分にない分)頼もしさとともに感じていたりする。
 「折る体験」などという担保を取らないでも魅力的である作品は、折り紙の世界の外においても強い意味を持って訴えかける表現になるに違いない。遅まきながら、北條さんの意図がぼくの中で実感できてきたように思った。

 早く実物を見てみたい。