折り紙造形について

この前のエントリ(なぜ蛇腹人物か - fold/unfold)だけど、見直すと自分の考えを余さず書けているとはいいがたい。
特に、折り紙が造形として劣っていると言っているかのように読まれたりすると困るなあと思った。ぼくの根底にある主張は簡単に言うと、折り紙造形はメジャーにはなりにくいということ。言い換えれば、折り紙造形をかっこいい*1と思うのは基本的に折り紙愛好家だけで、たぶん普通の人にとってはそれほど価値はないよ、という身も蓋もない話だ。だから、ぼく自身が折り紙造形をかっこいいと思ってないわけではない、もちろん。
これは先のエントリには書かなかったけど、なんでそうなるかと言うと、折る体験を通して造形に対する認識の仕方が変わってしまうからだと思っている。折り紙を折れば折るほど折り紙的なかたちが好きになっていくということだ。


あと「自由度」について。
折り紙は折り紙独自の造形美をめざせ、と口で言うのはたやすい。けど、例えば折り紙を折ってて仕上げにちょっと丸みをつけたりしたくなるその瞬間に生じるはずの悩みは忘れてはならないと思っている。あるいは、どうしても消せない線にぶつかったときとか。
そういう悩みというのは、最初から自由度の高い表現ではそう思う瞬間というのはまず少ないはずで、変なたとえかもしれないけど、絵を描いてて「ああ、紙の上の空中に筆を置きたい」って思うことはないでしょ?
昔、「自分が使っている手法に対して自覚的になることをぼくはすごく「折り紙的」な態度だなあと感じる」と書いたことにもつながるけど、折り紙で能動的に形を作ろうと思ったとき、なんとも歯がゆい気持ちにならない人はいないだろうと思っている*2。要するにそういうことを言いたかった。


むしろ折り紙すれば、だいたい勝手に折り紙独自になってくれるものであったりして、それこそおののくべきことだという気がする。すぐ上にもある「折り紙的」「折り紙らしい」という言葉で折り紙を評価する(してしまう)ことについてもっと考えないといけない。これは改めてエントリにしたいなあ。

*1:もっと言うと、手元に置きたい、毎日でも眺めていたい

*2:ある境地に達したらそうじゃなくなるのかもしれないけど