羽鳥さんのエントリから

 毎度(笑)、羽鳥さんのエントリに対して、2つほど。

・一般の人
 いつもひっかかってしまうのは羽鳥さんにとっての「一般の人」というのが具体的に見えてこないことで、これに関してはOrigami BBSで前川さんも指摘していたと記憶する。裏返して言えば、羽鳥さんの表現者としての立ち位置というか動機がいまひとつ見えづらい。例えば「折り紙を芸術にしたい」というとき、その「芸術」って一体ナニ?ということと、そして何のためにそれをするのか?ということ。

 ――「一般の人」が、ただ折り紙を見せられて、「すごいね」とか「きれい」とか言いました。――
 ‥‥って羽鳥さんの目標はこんなことじゃないはずで、帰ってくる「感想」が肯定的であれ否定的であれ「感想」以外の何物でもないわけで、別の形で現れるのでなければなんらかの「意味」として確認しえない。その別の形ってどんなだろう、と。まああまり「動機」の部分を詳細に語っちゃうと、それはそれで嫌味かもしれないし興ざめも誘ってしまうかもしれないのでアレですが。正直、ビジョンとしてつかめない感じがしている。

 ‥‥とここまで書いてきて、どこかで羽鳥さんがちゃんと書いていたような気もしてきた。もしすでに書いていたらすみません。


・再現性
 確かに羽鳥さんの立場から言えば「再現性」はありえないわけだけど、それでは「再現性」という言葉を使う側の意図を無視することになってしまわないだろうか。折り紙の再現性というのはあくまである限定的なレベルでの話であって、それに対立させるかたちで言及するのは正しくないんじゃないかと。
 「再現性が大事」って主張する人がいたとして、その人は、(例えば)「折り手の個性」を否定していることにはならないわけで、とにかく共立は可能だと思う。


 全然掘り下げられてないけど、以上の2つの論点を強引にまとめてみるならば、折りの一回性や差異を、鑑賞者(概ね折らない鑑賞者、つまり「一般の人」)に対してアピールしていくためにどういう方法が取れるかという話になって、ぼく自身もそれは興味しんしんなトピックなのだった。立ちはだかる「たかが折り紙」という壁をどう崩していくのか‥‥ってぼくは最初から白旗上げ気味なんだけど。